ときのかがやき
「私ね、明日死ぬの」
彼女は呆気無く、自分の死を私に伝えた。静寂が病院の個室を支配する。
時計は時間を正確に刻み続けている。窓の外の雲が流れていく。飾られた水飲み鳥がかっこんかっこんと動いている。そして、私も彼女も動かない。
部屋の中は私と彼女の二人きり。上半身を起こしている彼女からは白いケーブルが伸びている。そのケーブルは長い髪と螺旋のように絡みあって、再び離れてハートモニターに接続されていた。心電図が示す心臓の鼓動は極めて正常な値を示していた。彼女の言葉と大きく矛盾するように、正しい数値が表示されている。
元気な心臓と同じように、長い病院生活に対して彼女は健康そうな体つきだった。少しやせ細っているきらいはあるが、学校の制服やまともな私服を着たのであれば、よもや不治の病を患っているとは誰も想像できないだろう。私も最初は疑ったぐらいだ。
ベッド近くの壁に体を預けて、私はそんな彼女を見つめていた。私は体だけは頑丈だ。一時期不調だったけど、今は万全の体制と誇っていいと思う。
そんな私は彼女と違って外見は全く健康的ではないらしく、しょっちゅう心配されている。そうだから、私たちはとてもちぐはぐな組み合わせだと思う。どっちが強くてどっちが弱いか、分かりもしない。
彼女は今でこそ窓の外に目をやっているものの、普段は私を見上げるものだから首が痛いに違いない。初めのうちは気をつかっていたのだが、彼女は強情にも、そこに居ての一言しか言わない。目線を合わせようと椅子に座ろうものなら慌てふためくのだ。
だから私はこうやって壁に寄り掛かるしか体を休める術がなかった。いつも、まるでクールな侍従のように彼女と話している。
宣告からしばらくしてから、部屋の主が再び口を開いた。
「慌てふためかないのね」
普段どおりで、でもちょっぴりだけ呆れた感じの声だった。私はさてどうやって返せばいいのかと、遅まきながら頭を動かす。待たせるのも悪いので、そのまま思ったことを口にした。
「何度も聞いてたしね」
毎日のように彼女は自分の死期を口にしていた。二年後、一年後、半年後、と少しずつ短くなっていって、そしてとうとうこの時になったという、それだけのことだ。
一応理にかなった説明だと思う。けど、彼女は満足していなかった。呆れるどころか、見下すような視線でこちらを射抜いてくる。
「なに」
つい、ため息が漏れてしまう。彼女はぷい、と視線を逸らしてしまった。彼女は私よりも子供っぽい。それだけは比較できる確実な差異だった。
彼女は顔をしかめるように何かを言おうとして、その言葉を飲み込んだ。逡巡した様子を見せて、厭味ったらしく口を開いた。
「それでも、もっと驚くかと思った」
まるでドッキリが失敗した子供のような言い草だった。
彼女は、自分の死を蔑ろにされていることに対して怒って、もしくは呆れているのではないのだ。へそを曲げているのは自分の企みが失敗したからで、それ以外の何者でもない。
私はそれを分かっていたから、笑みを浮かべて彼女を見返す。
「もっと純情な相手に言うべきだったね」
「あなたが一番驚いてくれそうだったから。両親はもう知ってるし、今はもう親族中に知れ渡ってると思う」
入院費用払わなくなって狂喜乱舞している頃だわ、と彼女は自嘲する。
それが事実でも、虚構だとしても、少なくとも彼女達の心は既に色褪せているのだろう。彼女の入院費用が家計を圧迫していないということは無いはずだ。彼女自身にしても入院当初はこの牢獄を抜け出せると夢見ていたに違いない。
奇跡を望んで、心をすり減らして、諦めて、彼女は遂に死を目前に控えている。
私は健康体だから、大切な彼女が死んでもしぶとく当分生き続けるだろう。それでも、一緒に死のうとかそんな極端な感情は湧いてこなかった。大切な人なんだから、せめて憐憫や同情ぐらいは湧いたっていいのだろうに、自分に少し嫌気がさす。
「波乱万丈の、物語のような人生でも送りたかった?」
「いいえ」
かぶりを振って、否定する。残念そうな喋り方から、一転して満足そうな言葉尻に変わった。私もそれにつられて顔の表情が緩む。
「いつかはそんな人生を夢見たこともあったかしら」
物思いに馳せる彼女の心情は、流石に分からない。吹っ切れたように、彼女は微笑む。
「でも十分。少なくとも転は要らないわ」
「そうなると起承結か。変化もないキミの人生を、絶対に読者は満足してくれないな」
「誰かを喜ばす為に生きているんじゃないもの。や、もう生きてないのかも」
彼女はもう死ぬまで、このベッドから離れることを許されないだろう。離れることができるのはトイレの時くらいか。今から死まで全て決まっている人間は、もはや死んだのと同じだ。よく言って機械だろう。
「私に頼めば、死に方くらいは変えられるよ」
絞殺だとか、墜落死とか。ただし、私一人ではそこまでバリエーション豊かに取り揃えることは出来ないのが欠点だ。
「痛いのはイヤ」
死に方を変えたところで、彼女の残りの人生にどれだけの影響があるというのか。彼女を機械で無くすには、全然足りないと反省する。どうしても彼女は機械なんだろう。それこそ、漫画みたいなことが無ければ。
「それに、変化ぐらいはあったかな。あなたが来たこと」
静かな声だった。私は自分の心臓が少しだけ跳ねるのを感じた。誰だって自分の話題になれば動揺するだろう。私だってそうだ。
「あ、焦ってる焦ってる」
今度こそ計画を達成できて、彼女はご満悦のようだった。それ以上の満足を与える気はさらさらないので、冷たい声で続きを促す。微笑みを止めないまま、仕方ないとばかりに彼女は言葉を紡ぐ。
「うん、毎日あなたがここに来て、何かを話してくれる。凄い変化だと思うよ」
言うなれば、それが転なんだろう。
ベッドと、棚一つと、医療器具しか無い、静かな個室。私が彼女と会ってから、毎日学校帰りに私はここに来る。
それは、私にとっても変化だった。医者になろうとか、そんな重大な変革まではもたらさなかったけど、一日中無気力で居た頃の私とは随分違う。彼女と話している間は体に力が入るのを感じる。今だってそうだ。
「ね、十分波乱に満ちていた」
「三文小説にも勝てないけどね。ここから奇跡的に回復しないと駄目だ」
「ここから先はやっぱりだめかな。ああ、」
先が見えない彼女にも、どうやら心残りがあったようだ。
「ペアの指輪が欲しいな」
天井を見て、彼女は言った。見れない夢に逝くように、最後の理想を口にした。
「結婚指輪? またロマンティックな」
「もう明日死ぬって言ってるでしょ」
テレビの芸人がボケに突っ込むみたいに、そうでは無いのだと彼女は言う。一体なんなのかと私は彼女の説明を聴き続けた。
「私はもう死ぬの。なら、結婚なんて現世の習慣に捕らわれる必要なんてない」
常識とも法とも、習慣からも切り離されて、それでも必要なのは、願いの形代。
奇跡も軌跡も無いのなら、見えない先を考えよう。
「買ってくる。安いので良いかな」
「うん。あ、でもあなたはずっとつけないといけないから、高い方が良いかも」
平気でそんなことを言う彼女だった。
数時間後、特に大した事故もなく、私は個室に舞い戻る。手の中には小さな箱。
「買ってきた。奮発した」
適当な店で見繕ってきた安物だが、財布からはお札が綺麗に消えてしまった。
最初は彼女の指のサイズを気にしたが、結局関係あるのは自分の指であることに気づいて、それだけを確認して購入した。
「お疲れ様」
彼女はもぎ取るように私から指輪が箱を奪って、中を検分する。さくさくと彼女は指輪を自らの右中指に嵌めてしまった。
私はその選択に、彼女を凝視せざるを得なかった。彼女は私の視線を辿って、嘆息した。
「結婚指輪じゃないって何回言えば分かるの」
私はその言葉を聞いて、ならって右中指に指輪を通す。彼女は満足したように頷いた。
「左人差し指が恋人との関係を表すのは、心臓が一番近いから。つまり、それは心臓が停まるまでの関係と言えるでしょう?」
厳密に言えば全ての器官が必要ないだろう。腕も動かないし、目が見える訳でもない。だが、脳死が基準として採用される現代でさえ、最も容易い死の証明は心臓の停止に他ならない。
彼女にとってその関係は、一日足らずで終わってしまう関係だ。いや、残りの人生が機械であるならば、今この瞬間でその関係は途絶えてしまう。だったら、それよりも長く、強い関係を築くのが一番良い。とても合理的で、共感できた。
「だから、中指。遠くに行っても、あなたに一番近いように、利き手の中指」
「やっぱりロマンティックだ」
「バカにしないで欲しいわ」
彼女は少し顔を赤らめてそう言う。私はからかうことをせず、指輪を抜いて左に嵌め直した。
「明日から面倒になると思うから、来なくていいよ」
彼女は嵌めた指輪を私に見せて、そう言った。
内心がどうであれ、娘が死ぬというのなら、彼女の両親は少なくとも、明日は病院に居ることだろう。もしかしたら、不測の事態に備え、今も別室で待機しているのかも知れなかった。
「お墓とか、私の家とか、別に行かなくていい」
私も行くつもりは無かった。家に彼女の気配が残っているなんて全く思わなかったから。埋葬される場所も、彼女に縁も由も無い場所になるだろう。
「私たちにはコレがあるから」
手を絡める。指輪と指輪が当たって、重く小さな音が病室の中に響く。
「うん、」
「ずっと、一緒」
私にかかる、一生の呪い。だけど、嬉しかった。心臓が大きく高鳴る。生きているんだと実感する。これからを生きるんだと体感する。
彼女は今、こんなに輝いている。私の心を彼女でいっぱいにしてしまうくらいに輝いている。彼女はこれ以上ないというぐらい、人だった。
手と手を離す。私は自分の意志で、病室の扉を開けた。
「ばいばい。」
手を振って彼女は見送ってくれた。歩き出すとすぐに彼女は見えなくなったから、歩く道の先に意識を集中させる。
彼女ともう会えなくても、私の隣には常に彼女がいる。それだけで私は安心できた。
私が死ぬまで、私が死んでからも、彼女は私と一緒にいる。
-Powered by HTML DWARF-